この世界、特に資本主義社会において、みんなが一律に幸福になんてなれない仕組みが出来上がってるのは明白です。
笑う者の陰に泣く者が存在します。
勝者の数だけ、いやその数倍の敗者の亡骸の上で一握りの成功者が笑うのです。
これが真実だと理解した時点で、もうキレイ事は言ってられないのです。
受験戦争も就職活動も所詮は椅子取りゲームです。
それに参加した時点で誰もが皆、誰かを蹴落としてでも自分が助かりたいと願った証拠でもあり、自分が一番大事だということです。
でもそれを認めたうえでなら、それで良いのです。
自分さえ良ければいいのか?⇒いいですが何か?
申し訳なさそうにして自己都合を述べると「自分さえ良ければいいの!?」と叱られる場合があります。
例えば子供の学校のPTA役員に選ばれてしまった時、どうしてもやりたくなかったらやらなくてもいいはずなんです、任意のものだし法的強制力なんてないのですから。
それでも空気を読めば絶対に断ってはならないという暗黙の圧力に大概の人は屈してしまいますし、すでに諦めてしまっています。
この嫌な流れを誰かが断ち切らないといつまでも毎年生贄が祭り上げられます。
嫌なことは絶対に断るべきなのです。
世間に良い顔するよりも、自分の生活(家庭)の方が大事なのですから。
そんなの優先順位を考えれば判ることです。
「あんただけズルい!」
そう言われましても、別にズルじゃない、できないものはできないというだけだとクールに答えましょう。
資本主義社会で全員が幸福になることは不可能だ
冒頭でも申した通り、世の中の構造上基本的に全員幸福になることは不可能なのです。
いわばこの世は騙し合いであり、いかに泥水を自分以外の誰かに飲んでもらうかのババの押し付け合いであり、マヌケな自己犠牲精神の持ち主(生贄)を待っているのです。
その代わりに生贄となった者は手厚く称賛されます。
逆に空気を読まずに拒んだ者には除外という迫害が待ち受けてる場合があります。
誰かが汚れ仕事を請け負わなければ社会が成り立たないものなので、それはできるだけフェアに順番を決めたりの試行錯誤はするものの、根本的に誰も「私は絶対に嫌です!」という本音だけは言えません。
大袈裟でもなんでもなくそれを言うと社会からホントに追放されるからです。
器用に立ち回るか、ズルをするか、抜け道は邪の道しかありません。
他人の不幸を憐れむべきではない理由
そもそも他人の幸福なんていったい誰が望んでいるのでしょうか。
あなたは見ず知らずのおじさんの幸せを心から願えますか?祈れますか?無理ですよね?
でも逆に見ず知らずの人の不幸も望むことはないですよね?
つまりどうでもいいのです。他人のことなど無関心ということです。
でもアフリカで飢餓で苦しんでる子供の映像やポスターを見ると心が痛みますよね?
それは良心という名のエセヒューマニズムであり、薄っぺらい憐れみでしかありません。
あなたがもし通りすがりの誰かに「可哀想…」と言われたらどんな気持ちですか?
同情されて有難い?見下されて不愉快?
おそらく大半の方は後者の印象を持つと思います。
つまり他人の不幸をリスクのない位置から嘆き哀れむのは、ただの傲慢なのです。
他人の不幸は蜜の味?
だからといって他人の不幸を願ったり笑ったりする人間は軽蔑されます。
ですが人は他人の幸福を見るよりも、悲劇を見る方が心が躍動する性質を持っています。
このエビデンスはワイドショーの視聴率に出ていて、芸能人の結婚を報じるニュースよりも、破局や泥沼裁判、事件事故の方が数字が高い傾向にあるそうです。
つまり明らかに人というのは他人の不幸を知ることで相対的にマシな自分を確認できて安心するわけで、無意識だとしても他人の不幸は蜜の味であることを理解しているのです。
だからといってそんなことを口に出して公言するバカは誰もいません。
公の場に出ている人の全てが「心よりお悔やみ申し上げます」と言って、心痛なフリをして善人を気取ります。
「私はあの人よりも幸せだ!ラッキーハッピー♪」とは口が裂けても言いません。
https://nomore-suicide.com/gross-world
でも人を蹴落としてまで幸福になりたいとは思わない
だからと言って誰かを蹴落としてまで自分を優先する生き方に迷わない人がいるとすれば、そいつはサイコパスなので関わらない方が良いでしょう。
人を蹴落としてまでも自分が幸福になりたいと思う人は、ある程度社会で勝ち続けることができる性質と言えますが、最後には必ず足元をすくわれて叩き落とされることでしょう。
幼いころに散々読み聞かされた童話の結末は真理を説いているものです。
堕ちていく者を憐れむことも嘲笑うこともなく、ただ自分のことを考えてればよいのです。
満たされた者を羨むのではなく、憧れるでもなく、自身の足るを知るべきなのです。
人と比べて自分を測って苦しんだり悦んだりせず、淡々と己にできることをコツコツと無心に行うべきなのです。
その意味において、自分さえ良ければいいという思考は正しいのです。
誰もが自分を一番に大切に生きれば、それが全員幸福という世界平和に繋がるものと、”自分さえ良ければいい教”の私は、そう信じています。
同調圧力や社会良識に屈するな!
人と比べて自分を測定しても意味はない
自分さえ良ければそれでいい!