学校行事が大嫌いでした。
中でも合唱や運動会、学芸会や講演会が死ぬ程嫌でした。
みんなでひとつの事に取り組んで成し遂げるのにやりがいを感じないどころか、個を殺してワンフォーオールの精神を強制される事が不快でした。
それを素晴らしいと思う事が正常で当然かのような風潮に虫唾が走ります。
誰もが同じものを見て感動するわけじゃない。
むしろ人によってはそれを見て嫌な気持ちになる場合だってあるという事実から目を背けてはならないはずだ。
感動の押し売りは立派なハラスメントだ。
共感共鳴したくない、できない
中学の時、落語家が講演に来まして体育館に全校生徒が集まって拝聴したんですよ。
みんな思春期の子供の分際でわかってるかのように大笑いしてるんですよ。
私は思春期なので斜に構えてますし、正直落語なんて全く理解できないしで、終始表情を崩さず青白い顔して早く終わらないかなぁと思ってました。
講演が終わると隣の奴に「お前全然笑わないのな」と言われました。
「面白くなかったから」と答えるほかなかったです。
面白かったら笑っていたはずですが、面白くなかったのだから笑わなかっただけです。
でもきっと周囲の奴等は笑い処で笑うように、周りの反応に合わせていたのかな?
普段反抗的な不良っぽい奴等もケラケラと笑ってるのが実に意外でした。
まるで少年院の慰問会場みたいでした。
みんなと一緒に同じものを見て笑うという状況がすごく居心地悪くて嫌でした。
だから映画館でもみんなが一斉に笑う箇所で私は必ずシラケてます。
なんだかとても恥ずかしくなるのです。
空気を読みたくない、読めない
結局これなんだと思います。
その場その場の空気を尊重して、自分の感度は二の次なんでしょ?
場の空気に流されて怒ったり泣いたり笑ったりしてるだけなんですよ、奴等は。
マジョリティに属すことで安心していたいのが最優先事項であり、人と違った感覚はできるだけ表に出さずに、大多数に迎合することで身を守るというわけです。
その腹黒く臆病な処世術が瞬時にして読み取れてしまうからこそ、私は彼等と同化したくはないのです。
多数がAを選ぶなら、私はBを選択したいのです。
でもそれだと単なる逆張りくんになってしまうので、自分の意志とも違ってきてしまいます。
なので、本当に共感共鳴した時は素直に表現する事も大事だと心得てます。
ですが9割方、私の感性とマジョリティの反応がシンクロする事はありません。
実に生きにくいわけです。
一致団結したくない、力を合わせたくない
小学6年とか中一の時ですかね、合唱コンクールみたいなのあるじゃないですか。
いきった女子が言うんですよ、「恥ずかしがって唄わない方が逆に恥ずかしいと思います!」って。
確かに思春期手前の男子にしてみたら唄うのって恥ずかしいんですよ。
でも私が合唱に協力したくないのは恥ずかしいからではないのです。
唄いたくもない歌を唄わされてることに対するジレンマ。
お金を貰えるわけでもないのに強制されている不可思議な状況にも納得できてない。
そしてなにより指揮棒を持った教員の自己満足の為だけに奉公させられてるかのようでいて、「もっと口を大きく開いて!」とか怒られたりもうわけがわかりません。
やりたくないのです!
恥ずかしいからとか以前の問題なんです!
体育祭の応援合戦とかもそうです。
別に赤が勝とうが白が勝とうがどうでもいいのです!
自分たちのチームに思い入れなんて全くありません!
それよりも早く帰ってファミコンがしたいのです!
負けて悔しがってる奴とか意味が解りません。
お前等のその熱い感情、全部操作されてるんだよ!!
もし全員私のような気持ちでやってたら、催しは成立しませんからね。
民主主義の罠には屈さない
この国は表向き民主主義の多数決社会ですが、多数派が正しい事なんて30%くらいなものです。
実は結構間違えてます。
何故なら何も考えてない思考停止状態の8割の民衆が、政治力に長けていて声の大きい者に流動しているだけなので、力のある者の発言が認可されてるだけだからです。
真剣に物事を考えた一人の弱者の論文なんて誰も聞いてはくれないので通りません。
つまり民主主義と謳いながら、本当はあらゆる組織も独裁政権なのです。
従えない者(共鳴するフリができない者)は群れから外れるしかありません。
そして独立して力をつけて、いつしか体制側へと転じている事にも気付かず、今度は意見の合わないものを排除する側に廻っているのです。
このことから解るのは、むしろ多数派こそ悪だということです。
つまり強い方が間違いで、弱い方が大抵正しいのです。
だから私は物事や人を判断する時、形勢が弱い方を支持する事に決めてます。
その方がえてして正しいからです。
そして群れずに独りでいなければ真実は途端に見えなくなります。
力を持たない、集団組織を従えない属さない、ノーマークの孤立した弱者こそ、その眼には正しき善悪が見極められるというものなのです。
多数派に迎合するべきではない
流されて思考停止してはいけない
真実と正義は孤独の中にある