結局ね、異性であろうと同性であろうと、どっちにしても究極的に一番最重要視する部分っていったら、圧倒的に常に正しい人であるかどうかということなのです。
正しすぎる人は時に窮屈で敬遠されたりもするものだが、それでも正義という信念を貫き通せる人だけしか信じられないし、そんな人を探し求めて生きてきたよ。
いつも正しい人っているの?
なかなかいないですね。
基本人ってずるいですから、その時々の状況によって態度や考え方までカメレオンのように変えてしまうのが普通ですから。
いつも邪悪な人がいないように、いつも正しい人もいないというわけです。
でも、もしかしたら居るかもしれない。
100%じゃなくても、90%くらい正しい人であれば、それでも充分だ。
でもそんな人いるのかな?
いてほしい。
正論ばかり言って孤立してしまうような人と仲良くなりたいな。
正しすぎて認めてもらえなくて埋もれて押し黙るような人っていると思うんだ。
こんな下界では、俗物成分が多めでないと生きづらいものだから。
賢者は貝のように沈黙し、諦めてやがて消えてしまうものなのだろう。
誠実さは不器用で解りにくくあるべきだ
誰だって誠実な人が好きだ。
誠実さってなんだろう。
それはきっと礼儀正しさだったり、何か貰ったらしっかりお礼のお返しが出来るような人だたり、努力を続けられる人の事をいうのだろう。
それらは目に見えて判りやすいから、評価称賛もされやすい。
だから僕が思う誠実さとはちょっと、いやだいぶ違うのだ。
僕が思う誠実な人というのは、シャイで目を合わせずに会釈だけしてそそくさと通り過ぎてしまうような挨拶の苦手な人であり、意見を求められてもハッキリとしたことは何も言えずに、明確な答えを出すことをためらってしまうような、ぎこちない人だ。
何故そう思うのか、今から説明する。
挨拶と明言を避ける
挨拶とはサイコパスやら虚勢を張って自分をよく見せたいという人間が最も得意とする所作であることから、挨拶が出来る人=素晴らしい人という間違った認識が世間では圧倒的に認知されているため、照れずに気持ちよくハキハキと挨拶の出来る人というのは、この世界で器用に立ち回れる狡猾で優秀な人というだけで、決して優しくて正しい人間なのではなく、むしろその逆であるとすらいえるのだ。
だからこそあいさつなんて行為は照れくさいものであり、自信満々に大きな声ですることではないのだ。
でもだからといってしないというのは明らかに「悪」であり、正解は気恥ずかしそうにペコッと会釈するのが一番品位があるというわけだ。
次に自分の意見をハッキリ言えない人が何故正しいのか。
それは正解は一つじゃないことを知ってるからであり、更に自分の意見を通そうとすることは他者の感情を無視した粗暴なものであると感じてしまい、ためらうからだ。
傍目には単に気の弱い人に見えてしまうことだろう。
そう、つまり正しさ成分が多すぎる人は大抵誤解されていて、尚且つ見下されてるものなのである。
愚直なまでに正義を重んじてしまうと何もできない
悪には行動力がある。
それはためらわないからであり、欲望に忠実だからである。
一方正しければ正しくあるほど、人は実行に移すことができない。
なぜならそれは得てして誰も得しないことであったり、もしくは過ちを指摘する事で誰かを傷つけてしまう側面もあるからだ。
誰も得しないけど正しいこと。
間違ってるけど自分や誰かが気持ちよくなれること。
ほとんどの人はためらわずに後者を選ぶ。
それがこの社会で生きる掟であり、狡さは罪に問われることもないからだ。
でもだからこそ、無罪放免の悪事に手を染めてはならないと思うのだ。
人を半分欺いて倍の利益を追求するのが資本主義で生きる知恵だ。
この生き方を当然と捉えて思考停止してしまうと、生きやすいけどいつか巡り巡って最後には誰かの食い物にされてしまうのがオチだろうと容易に想像がついてしまう。
食物連鎖のひとつになって生きて死ぬのはとても虚しい。
だから考える。何もせずに考える。
喰わず喰われずに生きる術はないものかと。
結果何もしないことが一番地球に優しいことに行きつく。
ブループラネット
人の世は戦争の歴史。
戦争が悪だと理解するまでの知能を獲得したのであれば、あとは更に進歩して足るを知り、欲望を制御する生き方を志すべきだ。
正しい人はそれを密かに実行している。
でも人々はそんな聖者をひとえに怠け者と揶揄する。
まだまだ人の世は成熟には至らない。
だけど果実は青いままが美しい。
だからただ眺めてる。
この世界の行く末と、最果てで祈るだけの君を。