80年代回顧録

門田博光はなんで監督にもならず背番号も重かったのか?

南海ホークスの名選手・門田博光氏が闘病の末に74歳で亡くなられました。

門田といえば歴代ホームラン数、打点数共に王・野村に次ぐ3位という華々しい記録を樹立したレジェンドですが、にも関わらず引退後の活動は二流選手以下の地味な半隠遁生活であり、このキャリアでありながら監督にもコーチにも声が掛からなかった理由が謎すぎます。

メディアにも引っ張りだこでもおかしくないはずだが、不思議なくらい呼ばれなかった。

いったい何故なのか。

門田博光は孤高の天才スラッガ―

門田はフルスイングタイプのホームラン量産型バッターで、とにかく全打席ホームランを狙うような生粋のスラッガーだった。

身長170cmという小柄な体型にも関わらず、豪快に引っ張るスタイルはセオリーを無視しており、外野からなんやかんや言われながらも自身の信念を貫き通す頑固な性格から、孤高の鬼才と呼ばれていた。

その辺は落合に共通するところがあり、感じるところがあったのか、落合もまた門田をリスペクトしているようだった。(名前も同じヒロミツだし)

門田は入団二年目に打点王を獲得し、70年代と80年代の暗黒期の南海ホークスを20年間支えた。

漫画家の水島伸司とは仲が良かったそうだ。

野村との確執

当時の南海ホークスはノムさんこと野村克也氏が全権を握るワンマンチームであり、三番門田・四番野村の打順であることから、野村からは「ホームランを狙わずヒットを打て」としつこく迫られていたが、門田は聞く耳を持たず、関係性はずっと険悪なままだった。

ホームラン狙いで打率が低ければ下位に降ろされていたであろうが、門田は打率もしっかりと残していた為、言う事を聞かぬ後輩・門田に対して野村は「ぐぬぬ」状態だった。

野村は自身を棚に上げて南海三悪人として江本・江夏・門田の名を挙げた。

それぞれが天才ゆえに我儘で手を焼いたという意味でだが、方々に野村は「門田は協調性ゼロ、自分本位の変人で指導者にはなれない」と吹聴しており、結果引退後の門田の道を閉ざしたとも言える。

門田自身も「自分は指導者には向いてない」と自認してはいたが、オファーがあれば受けていた可能性は充分にあるだろうことから、野村が門田を疎外した可能性は否めない。

少なくともバッティングコーチとしての需要は十分にあったはずであるが残念である。

(05年にオリックスの仰木監督から要請があったが、既に体調が悪かった事もあり門田本人が断っている)

背番号27→44→60→78の何故

門田の現役時代の背番号は自らの意志によりどんどん重くなっていった。

普通は特に昭和では名選手ほど一桁の軽い番号を着けるものだが、門田の場合はその点も異質だった。

その為なんでこんな南海一筋でキャリアもすごいのに背番号が「44」や「60」なんだ?とずっと子供の頃謎であったが、なんでも目標とするホームランの数を想いに乗せていたらしい。

「44」は門田の母親が亡くなった年齢であり、本塁打を44本打って再起を賭けたいという想いから、怪我明けに自ら変更し、その翌年見事に有言実行でホームラン44本を打ってみせた。

更に83年には目標をさらに大きく「60」に設定し、それには及ばなかったものの40本を打って二度目の本塁打王を獲得する。

門田なら「1」や「7」を着けていても良さそうなものだが、自ら大きな番号を選択していった経緯を見ても、彼が偏屈な鬼才であったことが窺える。

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紳士なのに性悪という悪評

門田の性格は普段からおとなしく、はにかんだ笑顔が紳士的な穏やかな人柄に見えたものだが、根っからの関西人気質でもあることから、わりと言いたい事はハッキリと反論するタイプで、先輩からの助言は無視するし、客からの野次に対しても応戦するような荒さもあったことから、性格が悪いという悪評がつきまとった。(友人も不要というタイプ)

しかし江本曰く門田は人付き合いをあまり好まないゴーイングマイウェイの性格であったことから、随分と誤解されていた印象を受ける。

政治的な人間関係の構築には一切関心を示さず、ひたすら野球道に打ち込んだピュアでストイックな人柄であるのに、だ。

きっと先輩選手達からは面白くなかったのであろう。

この辺のスタイルは後にイチローが継承していた。(門田はイチローが好きで、どちらもB型)

杉浦監督曰く「門田は照れ屋で若い選手達に門田を見習えと言うと嫌がるんや」とのこと。

引退セレモニーも「柄にない」と断り、静かに去った。

南海消滅でダイエー行きを拒んだ理由

晩年に南海が身売りで消滅して福岡ダイエーに移転することになったが、門田は移住を拒んだ。

理由は子供と大阪を離れて単身赴任するのが嫌だったからだ。

同時に身売りした阪急=オリックスにトレードされる際に、上田監督と律儀で義理堅いやり取りを重ねたそうであるが、何も知らないダイエーファンからは当時相当ブーイングを受けていた。

結局二年後に上田監督の退任で古巣のダイエーに戻る形になるのだが、それを受け入れた理由は子供が二人とも高校生以上に進学したからだという。

子煩悩だったそうだが、晩年は独り暮らしだったそうで、その辺はヴェールに包まれたままです。

群れず媚びずの世渡り下手で、不器用で常に誤解されながらも自身の意志を貫き通す、門田博光とはそういった漢だった。

門田選手が好き(尊敬に値する)

当時はここまで門田の事を調べて知っていたわけではもちろんなかったが、すごいキャリアなのに背番号が重かったり、控え目な印象には好感度しかなく、気になるパリーグのベテラン選手であった。

門田のシャイな笑顔を見た時、この人絶対イイ人じゃん!って思ったものだ。

中年の男は人柄が露骨に表情に表れるものだ。

私は子供ながらにテレビのプロ野球ニュースでチラッと見るだけの門田に対して、直感的に清々しいほどの人格者と判断して勝手に好感を抱いていたが、やはり間違いはなかったようだ。

南海ホークス時代の門田は奈良の自宅から電車に乗って大阪球場に通勤していて、休日の趣味は油絵と読書と家庭菜園で、たまに一人旅を楽しむといった極めて異端な根っからのマイウェイローンウルフであり、当時の野球選手と言えば繁華街でチームメイトと飲んで騒ぐ体育会系の気質が多いのに対し、相当な変人扱いを受けていたであろう事も想像に難くないが、結果(数字)を残す事でなんとか許されていたのだろう。

 

人付き合いが嫌いで、我がままに自分の信念を全うし、仕事(数字)で周囲を黙らせる。

なんてカッコイイんだ。

こうゆう人が世間では(記録を残しても)認知されずに埋没していくのだから、やはりこの世界はクソである

門田選手の冥福を心よりお祈り申し上げます。

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門田博光生涯成績

2566安打(歴代4位)

567本塁打(歴代3位)

1678打点(歴代3位)

ABOUT ME
シェスタァ
カーネギーメロン大学を志し、芥川賞を狙うも挫折してからは人生に絶望して、部屋の片隅でひざを抱えて過ごす今に至る。 HSPでマイノリティ思考でうだつは上がらない。 シングルファーザーなのに無職という珍しい肩書きを持つ。 座右の銘は人生暇つぶし。