事件簿

埼玉中二男子同級生殺傷事件に見る自殺よりも正しい報復

今年7月5日の夕刻、所沢市久米の中学生宅で遊びに来ていた同級生を少年が刃物で刺殺するというショッキングな事件が起きた。

概要は普段から二人の関係はいじり、いじられの関係性であった事が報じられ、いじりに耐えがたい苦痛を感じていた加害者は以前から学校側に「腕を20回もつねられた」などと訴えていたが、改善が見込まれずに嫌がらせはエスカレートし、事件当日に以前教科書を隠された事を直接本人に問い詰めると否定された為、激情し凶行に及んだという流れだ。

歪な力関係の解消

この事件で学べる教訓はストレスを溜め込んだ弱者がキレた瞬間、強者は命を落とす危険性を常に孕んでいるというロジックだ。

こと中学校という未熟な社会空間ではスクールカーストが生徒間において明確な序列を生み、強者は弱者に対し尊厳を傷つけ嘲笑し、歪な力関係をもって日常を支配する。

耐えかねて弱者が暴発する事すら強者にとっては期待値込みの楽しみで、弱者が反撃しようものなら強者は待ってましたとばかりに数倍の攻撃でもってしてあざけるように制裁を加える。

同い年であり、雇われているわけでも弱味を握られてるわけでもないのに、理不尽な序列によりいじりいじられの関係は次第に構築され、気付けばハッキリとした力関係ができあがり、弱者はプライドを傷付けられながら強者の一挙手一投足に怯えながら学業と性にも同時に悩みつつパンクしそうになりながら駆け抜けなければならないのが中学時代なのである。

故にそんな空間で最下層の地位から抜け出す術もないままに毎日のようにクソみたいな連中から叩かれたり蹴られたりバカにされたり笑われたりして自尊心を奪われていくと、自殺してしまいたくなる気持ちも理解ができるというものであるが、自殺するくらいなら刺し違えてでも出来る事はあるんじゃないかと気付かせてくれるヒントというか答えそのものがこの事件には内包されている。

いじめっこは殺されるリスクを知れ!

強者は弱者の反撃を恐れてはおらず、むしろかかってこいよと煽るくらいに余裕なマウントを取っており、そこには1ミリも下剋上の想定はしておらず、死んだ目をした弱者が自分を殺しにかかってくるなどつゆほどにも考えてはおらず、冗談で「自殺すんなよw」とは言えても、「殺さないでねw」というワードは思い浮かびもしないものだ。

実際にいじめられっこが自殺する結末は山ほどあるのに対し、いじめられっこがいじめっこに復讐して殺害にまで至るというケースはアメリカの銃乱射事件ぐらいしか見当たらず、日本においてはほぼないことから、いじめっこがいじめをする行為にリスクを感じないが故にいつまでたってもいじめはなくならないのである。

そのことからも本件にはいじめの抑止力になりえる数少ない事例としての価値があり、いじめられたら殺せと言いたいのではなくて、いじめたら殺されるかもよ?という事をもっと浸透させるべきと思うのだ。

子を持つ親の心理

自殺してしまう子が命懸けの復讐をしない理由は明白で、親に迷惑がかかると勘違いして思い込んでいるからだ。

でも親の立場になってよく考えてみてほしい。ちょっとまだ想像できないかな?

親からしたら子供が自殺してしまうのと、殺人犯になってしまうのと、どちらが嫌かというと、そりゃどちらも嫌だけども、絶対に前者の方が圧倒的に嫌なんだよ。

後者であれば未成年なら社会全体で守られるし、ましてや理由がいじめられていたからなんて事であれば世論はいっせいに加害者の減刑を求めるし、ハッキリ言って君が思ってる以上に法律は君の味方である。

君が自殺してしまったら親は一生地獄の苦しみと向き合う生涯になるが、君がいじめっこに過剰な反撃をしてもマトモな親なら君を責めたりはしないだろう。褒められはしないけど、親として君を守る事に今後は全力を尽くすことになるだろう。

まとめ

この事件から学ぶべきは弱者の報復のやり方で、本件の失敗は殺してしまった事に他ならない。せめて重傷にとどめておければ被害者も反省する機会を得られたかもしれない。

しかし被害者が命を落とさなければここまでニュースとして報じられる事もなく、希少な弱者の下剋上という教訓を学ぶ機会は失われるだろう。

被害者の失われた命を無駄にしない為にもこの事件から我々は多くを学び取らなければいけない。

いじめっこといじめられっこの両方に刺さる教材である事に間違いはない。

実は本ブログもこの事件にインスパイアされて立ち上げを決意した経緯がある。

いじめ被害者の自殺エンドは胸糞悪くてもうたくさんだ!

令和の時代の先駆けとしてこの事件をターニングポイントにいじめ自殺といじめの両方が減る事を切実に願い、心から期待する。

この事件にはそれだけの「考えるに値する色々」にあふれてる。

被害者の冥福を祈る。