80年代後半のバンドブームの頂点はジュンスカだった。
よく一緒に対バンしていたユニコーンよりも人気は高く、ブルーハーツともいい勝負だった。
少なくともこの3バンドに差異はなかったはずだが、ジュンスカだけが現在までにあまりに過小評価なのが忍びない。
どうしてジュンスカはユニコーンとブルハに差をつけられ敗れたのか。
リアルタイムを十代で愛聴していたので改めて検証してみたいと思う。
ジュンスカは解散するのが遅かった
この3バンドは87年デビュー組で(ジュンスカはインディーズでメジャーは88年)、解散するのもわりと早く、ユニコーンが93年、ブルーハーツが95年、ジュンスカが97年となる。
ユニコーンの解散は絶妙で、すぐに奥田民生がソロで成功したのもバンドが余力を残した状態で惜しまれての解散であったからだ。
ブルーハーツはやる気のないラストアルバムを出して解散を表明したが、その後フロントのヒロトとマーシーは共に新たなバンドを組んで活動するも、ブルハ時代の曲を封印して再結成をしないことでブルハ時代の曲が神格化しだした。
一方ジュンスカは呼人の脱退のタイミング(93年)で解散するべきだったのに、継続を選択したことで落ち目になっていく様を露呈することとなり、結果的にバンドの価値を著しく落としていった。
奥田民生と宮田和弥は紙一重?
民生の成功を横目に脱退を決意する和弥だったが、時すでに遅しで解散後のソロシングルは不発に終わった。
民生と和弥は同い年で仲も良く、対バンの時はどちらかというと和弥が全体を仕切っていた。
奥田民生がバンド解散後にすぐにソロで結果を出し、更にパフィーのプロデュースで大成功を収めたことで、和弥と民生の差はあっという間に開いてしまった。
和弥もバンドを解散すれば民生のようになれるのではないか?と本人もファンも心の隅によぎったはずである。
しかしそう甘くはなかった。
よくよく考えたら民生はバンド時代もコンポ―サーとしてメインの曲作りをしてきていたのに対し、和弥も作曲はしていたもののジュンスカのほとんどの曲はギターの純太によるもので、和弥の独り立ちはファンからしても不安しかなかった。
ブルーハーツとジュンスカも紙一重?
どちらも青春パンクという同ジャンルのアイドルロックバンドであり、当時から納得の人気ではあったのだが、後にいくつもの曲がCMタイアップのオファーが尽きることなく茶の間に流れ続けたブルーハーツの楽曲とは対照的に、ジュンスカの曲が解散後にメディアから流れることはなかった。
ブルーハーツとジュンスカの単体楽曲にそれほどまでにクオリティ的な差があったとは思えないのだが、求心力とカリスマ性において圧倒的にブルーハーツの方が勝っていたのは事実であり、アイドル的な人気者から一皮剥けられなかった和弥&純太と、ロッカーとしての魅力に溢れていたヒロト&マーシーとの差だったのだろう。
ジュンスカの失速を考察する
ジュンスカは苦労知らずのとんとん拍子であっという間にバンド界の頂点にのし上がった。
メジャーデビューして翌年には人気の絶頂期を迎えていた。
しかしその期待が高まる中で、楽曲制作のスランプに陥り思うような曲を発表できず、アルバム「START」「TOO BAD」の捨て曲の多さにファン離れも早かった。
結果論だが早めに呼人にイニシアチブを取らせても良かったのではないか。
しかし呼人色の強いアルバム「STAR BLUE」はジュンスカっぽくないという声が多く、これを置き土産に呼人は翌年脱退し、ジュンスカは成熟せずに再び原点回帰に戻る。
呼人は何度も「このままの路線ではダメだ、ポップなものに変えていこう」と主張していたが、純太も和弥もこれまでのスカパンク路線にこだわった。
ミスチルと光と影
この92年当時、トイズの後輩としてミスチルがデビューし、呼人はセカンドアルバム内の一曲(「星になれたら」)を桜井と共作する。
翌年にはシングル「CROSS ROAD」でスマッシュヒットをかますこととなり、時代は完全にミスチルのようなバンドが主流となっていく。
それでもジュンスカは不器用にも独自のバンドスタイルを時代と逆行するかのように貫くことでジュンスカらしさを追求した。
ミスチルが社会現象を起こす中、ジュンスカもついに復帰メンバーの伊藤作曲による「さらば愛しき危険たちよ」で世の中に迎合するラブソングを放ち一矢報いるも、アルバムアーティストであることにプライドがあったのかシングルでの広報活動を最後まで行わず、結果的にジュンスカは時代から取り残された形で終焉を迎えることとなる。
ジュンスカはシングルヒットを全く考えなかった?
ジュンスカ最大のヒットシングルは唯一の1位を記録した「白いクリスマス」であるが、これはジュンスカとしては異色なバラードであり、楽曲としての評価も難しい。
そもそもジュンスカにとってシングルはアルバムのオマケとしての位置にすぎず、初期から最後まであざとく狙ったシングルは前述の「さらば愛しき~」ぐらいである。
しかし「さらば~」もアルバム発売前の先行シングルであり、アルバムと連動せずに単体で出したシングルは「白いクリスマス」だけである。
このスタイルこそジュンスカ最大の失策だったのではないかと考える。
特に90年代初頭はタイアップの時代であり、アルバムよりもシングルヒットを狙うタイプのアーティストが主流となっていた。
かといってジュンスカの楽曲群の中でシングル売りに適したものも見当たらないわけで、その意味でもジュンスカのシングルベスト盤が存在しないのも当然であると同時に非常に珍しくもある。
しいて言えばデビューシングルの「すてきな夜空」が一番シングルっぽいか。
ブルーハーツVSジュンスカVSユニコーン
88年末に「TRAIN-TRAIN」でブルーハーツが大ブレイク(シングル5位/アルバム3位オリアル最大の57万枚越えを記録)。
89年春にユニコーンがファーストシングル「大迷惑」でプチヒット(オリコン12位)。
ジュンスカがアルバム「歩いていこう」(3位/35万枚)でバンドブームを牽引。
秋にジュンスカが「白いクリスマス」でオリコン1位を記録。
90年夏にユニコーン「働く男」がバンドシングル最高位の3位、「ケダモノの嵐」がアルバム最高位の1位で35万枚越えを記録。
同時期にブルーハーツ「情熱の薔薇」がバンドシングル唯一の1位、「BUST-WASTE-HIP」がアルバム1位で35万枚越えを記録。
ジュンスカはミニアルバム「Let’s Go ヒバリヒルズ」が2位で30万枚越え。
91年にジュンスカのアルバム「START」がオリコン1位&自身最大の40万枚越え。
秋にユニコーンもアルバム「ヒゲとボイン」でオリコン2位&30万枚越え。
同時期にジュンスカはアルバム「TOO BAD」がオリコン2位&25万枚越え。
同時期にブルーハーツはアルバム「HIGH KICKS」がオリコン3位&24万枚。
つまりこの91年までこの3バンドはほぼ同じセールスで肩を並べていた。
92年末にジュンスカが「STAR BLUE」で5位13万枚とセールスを半分落とす。
93年春にユニコーンがラストアルバム「SPRING MAN」で1位29万枚。
93年のブルーハーツは「STICK OUT」と「DUG OUT」をそれぞれ平均22万枚程度のセールスながら精力的なライブ巡業を行う。
これまで肩を並べていた3バンドであったが、93年にして数字上ではユニコーン>ブルーハーツ>ジュンスカという並びが明確化する。
これまでなかなかトップに立てずにいたユニコーンが僅かながらも頭ひとつ抜けたのは解散というアドバンテージがあったのも大きな一因ではある。
秋にユニコーンのベストアルバムが53万枚を記録する。
95年に解散したブルーハーツはベストアルバムを60万枚売り上げる。
一方ジュンスカのベストアルバムは92年の23万枚が最高で、オリアルも5万枚前後で悲惨の一途を辿り、ここで明暗が残酷な程にクッキリと分かれた。
ブルーハーツもラストアルバムは20万枚に届かなかったが、ジュンスカのラストアルバムは2万枚にも届かなかった。(内容は悪くなかったのに)
このことからもジュンスカだけが突如異様なまでのファン離れを引き起こし、結果としてこの事実が後々の評価に反映された。
全盛期のセールスは三者どっこいどっこいだったのに、最終的な評価はジュンスカだけが軽視され、逆にブルーハーツは神格化した。(ユニコーンは中間)
ジュンスカの少ない残党ファンとメンバーはずっとこの扱いの違いに悶々とし続け、ブルーハーツとユニコーンのファンとメンバーはジュンスカを意識することすら忘れていった。
因みに10年前の復活後のユニコーンのセールスは第一弾の「シャンブル」が驚異の25万枚を売った後は4~8万枚程度の推移だが、ジュンスカは1万枚にも満たない。
ヒロト&マーシーが属するザ・クロマニヨンズもここ数年は1万5千枚~2万枚台をうろついており、現在でも低レベルながらユニコーンが頭ひとつ抜けていることになる。
う~~ん、、なんでだろ??
再結成後に寺岡呼人が二度目の脱退
ジュンスカは仲が悪いのか?
長い間絶縁中だった和弥と純太であったが、解散して10年経った頃に小林の呼びかけによって期間限定で再結成する。
再び休止した後に東日本大震災をきっかけに再度結集し、完全復活したのがもう10年以上前になる。
昔は若さも相まって衝突する事が何度もあったらしいが、還暦近い中高年となった現在は仲良くバンド活動を継続しているっぽい。
しかしベースの呼人に関しては元からオリジナルのメンバーではなく、デビュー直前にレコード会社が押し込んだ事もあり、ビジネスライクな関係であった為、ジュンスカに伸びしろが見えないことを察するとすぐにまた脱退したのだったw
呼人は男闘呼組と新バンド結成
ゆずのプロデューサーとしてジュンスカの他メンよりも巧く稼いでいた呼人にとっては、ジュンスカに帯同する事になんの旨味もなかったのだろう。(そもそも現役時代も途中で脱退してるわけだし)
業界に顔が広く社交術に長けた呼人は、昔男闘呼組の成田と一緒に音楽活動をしていた縁もあって、男闘呼組復活→解散後の新バンドのプロデューサー兼メンバーとして既に活動している。
呼人の器用さを利用できなかったジュンスカの不器用さが愛しくもあるのですが、ね。
すてきな夜空
悲しすぎる夜
だけど一人じゃいられない
SUICIDE DAY
すべて(ちょっと渋すぎるかw)